随想「ケニアの思い出」




はじめに


 私は1992年3月から3年間、1999年11月から2000年10月までの合計4年間にわたって東アフリカのケニア共和国ナイロビにある国際動物病研究所というところで、アフリカ大陸で猛威を振るう家畜の「眠り病」の研究にたずさわりました。日本政府が行う平和的な国際技術協力の一環です。その間ケニアや周りのアフリカ諸国で見たり聞いたりした事から、庶民の生活のいくつかをここにまとめてみました。これは私個人の私的な見解であって、何ら公的なものでは無いことを予め断っておきます。


 ケニアは赤道直下にある国ですが、たぶん多くの方が思い浮かべる、蒸し暑い西アフリカのジャングル=熱帯雨林は殆どありません。それとは逆に、アフリカ東海岸は雨が少なく、その内陸部には今なお地球のマグマがふき上がり、地上が裂けつつあるグレート・リフトバレー=大地溝帯があって、標高が高いために気温も低めです。乾燥した大地に、乾燥に強く鋭い刺のあるアカシアなどの潅木がまばらに茂っている風景(サバンナと呼ばれています)が国土の大半を占めています。よくテレビでも放映されるゾウやライオンなどの野生の王国の風景です。このすばらしい野生の王国を求めて日本からの観光客も少なくありません。

 国土の広さは日本の1.6倍、人口は2400万人です。人口100万人を越える首都ナイロビは国土のほぼ中央部、標高1700mの高地にあります。これは、九州では、ほぼ久住山の頂上の高さです。気候は雨季と乾季がありますが、年間の降水量は雨の比較的多いナイロビですら1000mm程度で日本の数分の一です。ですから、ちょっとした気候変動で厳しい旱魃になることがあります。ナイロビの平均気温は年間を通じて20℃前後で乾燥してとても過ごしやすいところです。

 ケニア共和国は第2次世界大戦後の1963年にイギリスの植民地から独立した黒人国家です。60年代には多くのアフリカの国々が、植民地支配から脱して、次々と独立を遂げました。地下資源に恵まれないケニアは、コーヒー、紅茶などの輸出作物を中心とした農業国です。多数の部族・民族を抱えた複雑な人口構成をしており、しばしば部族間対立などの深刻な政治的・社会的な問題を引き起こしています。これはケニアだけに限ったことではありません。ケニアの隣国ソマリアでは長年にわたって内戦がうち続き、今なお無政府状態です。1994年からアフリカ中央部のルワンダでは50万人以上の人々が内戦と、それに続いて発生したコレラと腸チフスの大流行で命を落としています。アフリカだけではなく旧ユーゴスラビア、旧ソ連領内などでも戦火はうち続いています。

 同じ人間として生まれ、同じ時代の地球に住みながら人々の生活はさまざまです。ここではいくつかのケニアでの問題について触れてみたいと思います。

 





ケニアのストリート・チルドレン


 まず、ケニアのストリート・チルドレンについて書きましょう。初めてナイロビを訪れた人は市内の大きな交差点の信号機で一旦停止しているときに、新聞や雑誌などの売る威勢のよいお兄ちゃん達に混ざって、ぼろをまとい、車の間を物乞いしてまわる沢山の子ども達に必ず気付きます。たいがい学齢期の男の子ですが、小さな兄弟をおぶった女の子もよく見かけるようになりました。ここで「ケニアの」と書いたのは、ストリート・チルドレンは何もケニアだけの特別な問題ではなく、アジアや中南米の発展途上国でも同様な問題があるからです。

 ユニセフによると、世界中のストリート・チルドレンの数は約1億人と推定されています。そのうち、南米のブラジルでは、驚くべきことには、800万とも1000万人とも言われています。同じくメキシコの首都メキシコシティーのストリート・チルドレンの数は11200人と報道されています(朝日新聞、1995年8月5日付け)。

 ストリート・チルドレンに関してよく知るようになったきっかけは、次の時からでした。

 1994年7月15日、私たち派遣専門家会主催の定例講演会に、ケニア人女性監督アン・ムンガイさんを招き、ストリート・チルドレンの問題をあつかった42分のビデオ作品「Usilie Mtoto Wa Afrika スワヒリ語で(泣くな、アフリカの子供たち)」(ユニセフの提供の作品)の上映と講演を行いました。


 ビデオの内容は、地方の農村の典型的な子沢山の家庭(5〜10人は当たり前)を舞台にしています。飲んだくれの父親に愛想をつかせた母親がいたたまれなくなって、首都ナイロビに出稼ぎにいきます。しばらくして、一番上の娘(プライマリー・スクール=8年制の小・中学校の上級生)が母を追って、なけ無しのお金でナイロビにやって来ますが、おつりをマタツ(バンやミニバスなどの普通のバスより小型の公共輸送機関、庶民の足ですが乱暴運転で人身事故の大半を占めます)の悪い車掌からだまし取られます。一文無しになった彼女はその日からストリート・チルドレンの一人として、路上生活が始まります。物乞いする者、ゴミをあさるもの、売春する者、麻薬などの薬物に溺れる者、犯罪に走る者、、、。

 すべて実在のストリート・チルドレンの出演でした。彼女はある時、夜一人で歩いていると数名のいかがわしい男共に襲われそうになります。逃れる途中、幸か不幸か車と軽く接触する事故のお蔭で、その場は事なきを得ます。母を捜し求めナイロビ中を歩き回ります。そうして、遂にマーケットでサイザル(麻)・バッグを作って売っている母親に出会います。ともかく、理解のある母親はソーシャル・ワーカーの勧めで、ナイロビ市内のプライマリー・スクールに娘を編入してもらいます。娘は、また好きな学校に通うことが出来るようになって、めでたしめでたし。そして最後に、子供たちが各々将来何になりたいか(看護婦、医者、教師など)を述べておしまいでした。


 ビデオの後は監督自身が、参加者の質問に答える形で、ストリート・チルドレンの問題を色々な視点から分析すると共に、解決するための意見を交換しました。

 ナイロビだけでも3万人いると言うストリート・チルドレンは毎日100人の割合で今も増え続けています。また、女の子の割合が増えている傾向があります。このストリート・チルドレンが出現し始めたのは、独立後10年経った1973年頃からで、初期のストリート・チルドレンは何らかの仕事(車洗い、ウォッチマンなど)をしていたそうです。つまり、少なくとも働かないと食べていけなかったのです。しかし、今では物乞いが中心です。

 原因は経済的な要因、シングル・マザー、子沢山、女性の教育の軽視、天候不純、地方農村の荒廃など様々な要因が複雑に絡みあっています。現在、政府、民間ボランティア、NGO(非政府援助組織)、宗教団体などがホームやシェルターなどを作って活動していますが、「数が少ないうえ、ばらばらな活動に終わっています。ですから一度、これらの組織が一同に会して、活動の経験や問題点を話し合う必要がある。」と監督は提案しました。さらに、「ストリート・チルドレンの問題は単にケニアの社会問題では無く、おなじ人間としてとらえてもらいたい。だから、一時的に滞在する(我々のような)外国人の問題でもある。できる範囲で協力していただきたい。知恵を頂きたい。」 そして、会場の質問者に答えて、「信号で待っている時、個人の考えでストリート・チルドレンにお金をあげるのもいいと思う。ただ出来ればお金の代わりに食べ物を与えて欲しい。」 監督は一つの解決法として、「ストリート・チルドレンはグループ化して独自の歌や演技などのパフォーマンスを持っている。出来れば、これを活用したい。また敗戦直後の日本の経験も研究したい。」


 最後に監督は、「私はケニアの女性として、母として、これからもこの問題や女性問題をとらえた作品を作り続けて行きたい。」と述べて結びました。


 後日、専門家会の忘年会に彼ら20人ほどを呼んで、20分ほどの歌と寸劇のパフォーマンスをしてもらいました。荒削りながら、彼らのひたむきな姿には感動をおぼえました。忘年会の終了後、我々が食べ残した沢山の食事を提供しました。どの子も何回もお代わりをして、一生懸命になってお腹一杯食べているのを見ていると、私が子どもだった頃の貧しかった日本の過去を見るようで、何かすがすがしい気分にさせられました。出演料はプールしておいて共同の家を借りる資金にするそうです。


(以上の文章は1994年7月に書きました。)




 

Save the street-children 日本のNGOの活躍(2000年3月7日)

 残念ながら、本来、平等として生まれるべき人間は、現実には生まれながらにして不平等です。ストリート・チルドレンの問題は深刻な開発途上国に共通したの社会問題の一つです。しかも、減少するどころか、ケニアでの増加の傾向はエイズの蔓延による5-10年後の青・壮年人口の激減により、爆発的な増加すら予想されています。

 政府機関、宗教・慈善団体、外国のNGOによる援助は継続されていますが、まだ一部の運動に留まっています。こんな中で日本のNGOも地道な活動を行っています。1982年に設立された Save the children Centre (SCC) は数少ない日本のNGOです。たまたま「取材」をさせていただく機会を得たので、今回ご紹介いたします。

 SCCは職業訓練も備えた孤児院を運営すると共に、週2回地元のケニヤッタ・マーケットで給食と簡単な外傷の治療を施しています。この日も昼過ぎにワゴン車に大型のバケツ一杯のキゼリ(塩味の煮豆)を積み込み、この日は集まってきた50人ほどのストリート・チルドレンにマグカップ一杯の暖かい給食を配給しました。その後、外傷のある子供には消毒・治療をしています。

 彼らの無邪気な振る舞いにも、20%がエイズ・ウイルス陽性とも言われており、絶対的な貧困・無教育・非衛生・シンナー中毒など彼らを取り巻く社会的な環境は最低のレベルです。このような厳しい状況を少しでも改善しようと努力する方々の中に、まだ少数ですが、日本人がいることは誇りです。政府機関による援助では到底及ばない社会の底辺への直接の援助こそ、人間として優しい手を差し伸べることになるのではないでしょうか。日頃の自分の俗人的「拝金主義生活」を反省させられました。これに関して、興味のある方は以下のホームページをご覧下さい。

http://www.reference.co.jp/imori/kenya/scc.html 




ケニアの教育、特にハランベー・スクールについて


   1994年5月20日金曜日はシンバサロン(専門家会主催の毎月定例の小講演会)で、青年海外協力隊の理数科教師女性2名によるハランベー・スクール Haranbee School の話がありました。

ハランベーとは、もともと現地語=スワヒリ語の「よいしょ」といったようなかけ声でしたが、独立以来、今では相互扶助・募金を意味するようになっています。

 現在ケニアには日本から十数名の青年海外協力隊の理数科教師が派遣され、各地に赴任し活躍しています。その内容を以下に書いてみます。

 ハランベー・スクールとは、8年制のプライマリー・スクール(日本の小中学校に相当する建前上無償の義務教育の学校ですが、実際には年間1500シル位は必要、就学率80%)の次の4年制のセカンダリー・スクール(中高校に相当、就学率40%)の一種です。セカンダリー・スクールとしてはこのハランベー・スクールの他に、国立 National、政府 Gavernment の2種類がありますが、いずれも教育環境が比較的良いため学費が高く、貧しい一般の家庭からは行けないのが実情です。

 学費の安いハランベー・スクールでも、教員の給与(2500〜3000シル程度、6000〜8000円の薄給です)のみ政府から支払われる他は、殆ど自前で、教科書・ノート・備品の購入、昼食、クラブ活動などのため、自宅通学の場合年間3000〜8000シル、寮制の場合は6000〜18000シルほどの学費の負担が必要です。現金収入のほとんどない地方の家庭には、これは大変な負担です。しかも地方での一日の労賃はわずか40〜50シルです。加えて、イギリス植民地時代からの名ごりか、制服を採用しており、入学時にはユニフォーム(白ブラウス200シル、カーデガン400シル、スカートまたはズボン400シル、白ソックス100シル、黒靴400シルなど)のために1500シルほど他に必要です。服装や校則にはとても厳しく、違反者には鞭打ち、清掃、草刈、薪運びの罰が課せられます。

 寮制の場合の食事の献立は、朝はウジと呼ばれるウガリ(メイズ=英語のトウモロコシを熱湯で練ったケニアのご飯)のスープか紅茶だけ、昼には豆とメイズの入ったギゼリ、夕食はウガリと菜っ葉のスクマかライスとキャベツで、このメニューが殆ど毎日のように続くそうです。肉類を口にできるのはごく希なことだそうです。こんな具合ですから寮の生活環境も悪く、ある学校の寮では、大部屋に100名程詰め込まれていると聞きます。


 青年海外協力隊の理数科教師たちの殆どは、「近代文明」から隔離され、電気も水道もないこうした田舎のハランベー・スクールに赴任しています。そんな所ですから、彼ら彼女らの生活は全てが大変です。しかし、生徒や同僚の教師との感動的な触れ合いなど、自らの体験をスライドを交えながら熱を込めて話す姿は、いま本当に充実した青春を送っているのがまざまざ感じ取られて、久し振りに明るい話しでした。確かに、彼ら彼女らは生徒に「教える」以上に、途上国で人間の生きざま・幸福とは何かという本質を「学んでいる」いるのです。

 ただ、彼女たちの最後の話にあった生徒の事故死の多さ、それに、意外なのですが、思春期などいろいろの原因で起こる自殺の多さには考えさせられました。日本のような生徒どうしの悪質なイジメによるものは無いようです。


 協力隊の理数科教師たちは、独自に KESTES (Kenya Student Education Scholarship) ケステスと言う奨学金制度を作って、現地の邦人や帰国関係者からの募金を基に、年間数十名の経済的な理由で進学ができない優秀な生徒の勉学を援助しています。少しでも役に立てれば、と思われる足長おじさん・おばさんは下記の日本の口座へカンパをお願いいたします。また、タンザニアにも同様な奨学金が出来たようです。



	「ケステスって何??

	  私たちは、青年海外協力隊 (J.O.C.V.) 隊員として各種の職種でケニアで活動を
	 しています。 KESTES とは、理数科教師隊員が中心となり、行っている活動です。
	  ケニアのセカンダリースクール(日本の中3から高3に相当)には、成績、人格とも
	  に優秀であり、次世代においてケニアの貴重な人材となる可能性を秘めた生徒が学
	  費の支払いができないゆえに学業を途中で放棄するという状況が数多く見られます。
	  
	  そこで、このような生徒に対し、個人的に学業援助を行ってきた隊員も何名か
	 いましたが、隊員の限られた任期の問題等もあり、より効果的に学業援助を行う
	 べく、1983年にケニア隊員有志による奨学金制度が設立されました。それが、青
	 年海外協力隊在ケニア隊員有志による奨学金制度 J.O.C.V. KESTES (Japan 
	 Overseas Cooperation Volunteers Kenya Students' Educational Scholarshop) 
	 です。」
	 
	          (ケステス広報誌:ハランベーレオ 1998 Vol.1 より)


口座人名:KESTES 郵便口座:00100-9-750111






ある出稼ぎ労働者の生活「ウオッチマン(警備員)・キロンゾの月収1896シリングの使い方」


 1994年5月22日付けの現地紙『サンデー・ネーション』の記事から。この記事は地方から出稼ぎに出てきた一市民の生活ぶりを紹介しています。(青木JICAケニア事務所次長[現JICA派遣事業部派遣三課]訳・国際協力事業団ケニア事務所ニュースからの転載です。)1シリング(シル)は約2円に相当します。


 最低賃金労働者のキロンゾにとって、労働大臣が5月1日(労働=レーバー・デー)に発表した最低賃金アップは複雑な思いである。新工業地帯でウオッチマンとして働く、彼の新しい月給は1896シリング。つまり1日60シリング(140円)で生活しなければならないと言うことだ。彼のキベラ(ナイロビで最も大きなスラム街)は水も電気もなく、家賃は400シリング。しかし、今まで同様、歩いて通えば交通費はかからない。

 キロンゾはとっくに朝飯を抜くことを覚えている。パンの固まり半分は7シル50セントだが、今では4シルのお茶をキオスクですすっている。---ミルク・ティーが7シルで手に入るのだが、彼にとっては予算オーバーだ。

 幸い彼の会社はユニフォームを支給してくれるので、衣類の心配はない。ただ靴底直しには定期的に5シル必要だ。彼にとってラッキーなのは、昼飯に遠くに行かなくて済むことだ。「ママ」が門のところまで売りに来てくれるので、キゼリを1袋7シル、チャパティー(具と味付けのないお好み焼き風パン)を5シル、そうして本当に空腹時には空き缶に入ったウジを5シルで買う。これで17シルだ。

 最もぜいたくな食事は夕食だ。スクマ・ウイキ(菜っ葉の一種)が1束5シル、そしてウガリのためのメイズが半袋で22シル50セント。これに水代、石油代、調味料代わりの玉ねぎを加えると35シルだ。

 キロンゾの夜の楽しみは、一杯ひっかけることだ(彼の家族は田舎にいる)。彼はブサーと呼ばれる最も安い酒で10シル、それにばら売りのタバコが2本で4シル。

 と、ここまでで彼は70シル、月にして2100シル、つまり彼の月給よりももう多く使ってしまっている。だから、月給の1800シルに抑えるためには、残念だが夜の一杯は止めなければならない。それにこれには、家賃も靴の修理代も、田舎に送金する金だって含まれていない。

 だからキロンゾや仲間のような最低賃金労働者は、新しい給料は嬉しいものの、どうしたら早く、この超インフレを終わらせることができるかを、いつも考えている。



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